禅(zen)とあなたと仏様
神様仏様とはよく言いますが一体どこにいるのでしょう。
困った時の神頼みという言葉を耳にすることがあります。仏様も礼拝をすることにより御利益があると言われています。
ですが実際に神様や仏様が助けてくれることはなかなかないでしょう。
普段から良い行いをしているならともかく困った時だけ神様に頼むというのもおこがましいものです。
むしろ日頃から神様が助けてくれるのであればはなから困った状況には陥らないんじゃないかと思います。
神様は天界にいると言われていますが仏様は一体どこにいるのでしょうか。
実はそこ答えはあなたの中にあるのです。そしてその答えを導き出すのが「禅(zen)」という考え方なのです。
禅の種類とその宗派
そもそも「禅(zen)」とはなんなのでしょう。世界中にはいろいろな宗教があります。キリスト教にヒンドゥー教など様々です。そしてそれぞれの宗教には教義と呼ばれる考え方や教えが存在していて「禅」とは仏教における教義のようなものだと考えていただいて良いと思います。
仏教にもいろいろな宗派がありますが禅を教義とする宗派を禅宗と呼びます。そして禅宗の中でも「曹洞宗」、「臨済宗」、「普化宗」、「黄檗宗」といくつかの宗派に別れています。
曹洞宗や臨済宗あたりはよく耳にすることがあるのではないでしょうか。
曹洞宗は道元が伝えた宗派で本山は二つあります。一つは福井県にある永平寺(えいへいじ)でもう一つは横浜市にある總持寺(そうじじ)です。曹洞宗はあとで詳しくお話ししますが黙する禅と言われています。
臨済宗は栄西が伝えた宗派でこちらは細かく分類されています。例えば臨済宗妙心寺派の本山は京都にある妙心寺というようにその分派ごとに本山が存在しています。臨済宗は曹洞宗とは違い対話する禅と言われています。
「坐禅」頭の中で繰り広げられる禅の修行
禅宗の修行の中に坐禅というものがあります。結跏趺坐(けっかふざ)と半跏趺坐(はんかふざ)と呼ばれるあぐらによく似た形に足を組んで座ります。
この時に坐蒲(ざふ)という座布団を分厚くしたようなものをお尻のしたに敷きます。この坐蒲を引くことにより背筋を無理なく伸ばすことが出来るのです。
次に手ですが法界定印(ほっかいじょういん)と呼ばれる形を作り足の上に置くようにします。法界定印の形ですがちょっと説明しにくいのでまた各々で調べて頂けると幸いです。
これで坐禅を行う姿勢は整いました。
次に目ですが瞑想とは違い坐禅では目を閉じません。半眼といって半分目を開けた状態で行います。目線は約1メートル先の床を見るように視線を落とします。
目線が決まれば次は深呼吸です。欠気一息(かんきいっそく)と呼びますが深く数回呼吸したあとに静かに呼吸を整えます。
目線と呼吸を整えたあとは最後にもう一度姿勢を整えます。
左右揺振(さゆうようしん)と呼ぶもので体を左右に軽く揺らして自分の中で一番真っ直ぐな位置を探すのです。
それでは坐禅を行っていきましょう。
坐禅の目的と宗派による違い
坐禅については以前軽く触れたことがありますがこの坐禅も宗派によって坐禅を行う目的に少し違いがあります。
臨済宗は対話する禅と説明しました。禅問答という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
「苦しみがない世界はどういうところだろうか?」というようなすこし難しい質問に対して自分なりの考えで答えを出していくというものです。臨済宗の坐禅は何かに対しての答えを見付ける事を目的としているそうです。
曹洞宗は黙する禅と言えば良いのでしょうか。曹洞宗の坐禅は誰かと対話するのではなく自分を見つめ直して自分の中にある答えを探究することを目的としています。
この二つの坐禅の違いは目的だけではありません。臨済宗の場合は人と対面した形で行うのに対して曹洞宗の坐禅は壁に向かって座ります。
これも目的の違いから来ているものなのでしょう。
臨済宗の坐禅のように一つの答えを求めることも大切な事ですが今回注目したいのは自分を見つめ直すという曹洞宗の坐禅についてです。
自分を見つめ直すと言いましたが自分について考える訳ではありません。
曹洞宗の坐禅は何も考えずにただひたすら坐禅を続けることです。
よく心を「無」にすると言いますがまさに目指すべきはそこなのです。心を無にしながらも自分の中にいるといわれている仏を探すのです。
外からも内からも影響を受けない状態を目指すのですがその時に自分の中にいる仏を見つけられると言います。
しかしそれを探している内は心は「無」ではないのです。自分を探したり何かを探すときには必ず見つけようとする欲求が生まれてしまうからです。
求めながらも求めない形と言われてもただの矛盾のように感じてしまいますが曹洞宗にはその矛盾すら無くしてしまうような答えがきっとあるのでしょう。
いくら考えてもその答えは出てきませんがいつかその答えを自分で見付けてみたいと思います。
禅の中であなただけの答えを見つけてみよう
人は常に何かを考えています。考える事をやめたときそこには一体何が残るのでしょうか。ここにあなたが抱えている悩みがあります。その悩みについて考える事をやめたときにもしかすると考えても出てこなかった答えが見つかるかもしれません。もしかすると周りとは違う答えだったとしてもそれがあなたの答えなのです。
今回は坐禅についてお話ししましたがこのお話も自分でたどり着いた一つの答えです。
禅の教えとは反する面があるかもしれません。
ですが「全てはあるがまま」それも禅の教えなのですから。
それでは今夜はこのあたりで。