「黄昏時」に「黄昏る」のは何を探しているからなのか

黄昏るとは一体どんな状態なのか


「こんなところで何をしているんですか?」

「ちょっと一人で黄昏ていたんだよ」


どこかで目にしそうな会話ですが実はこの会話には間違いがあります。
それは「黄昏(たそがれ)ていた」という部分です。
この黄昏るというのはよく「物思いにふける」や「頭を空っぽにしてボーッとする」という風に使われることがありますが本来はこういった使い方をされる言葉ではないのです。

「黄昏る」とは日没直後に西の空に少し赤みの焼けが残っている状態を表す言葉です。

そしてその時間帯の事を「黄昏時」と呼ぶのです。

そして空の赤みが消え去り空が深い藍色に染められるその時を「禍時(まがどき)」「逢魔ヶ時(おうまがどき)」と呼びます。
この逢魔ヶ時については以前お話したことがありますね。

逢魔時(おうまがとき)と魑魅魍魎(ちみもうりょう) 逢魔時(おうまがとき)という言葉があります。読んで字のごとく「幽霊や魑魅魍魎に逢いそう...


それでは次は黄昏時と呼ばれる由来についてお話ししましょう。

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黄昏時(たそがれどき)と呼ばれる由来は何なのか

日が落ちて辺りはどんどんと暗くなって行きます。月が辺りを照らすまでの時間は辺りは宵闇に包まれます。
黄昏時はその宵闇への入り口です。

たとえ空に赤みが残っていたとしても辺りは暗く周囲にいる人の顔すらはっきりとは見えません。

辺りがよく見えない状況で人の気配がすれば誰もが不安になるものです。

そこで人は自分を守るために問いかけます。


「誰そ彼(だれそかれ)」

これは今の言葉で「あなたは誰ですか?」という意味です。
顔がはっきり見えず相手に誰かを問うような時間帯。これをいつしか「誰そ彼時」と呼ぶようになりました。

そして時代を経るうちに「だれそかれ」は「たそがれ」へと変化して現在の「黄昏時(たそがれどき)」となったのです。

たまには人が黄昏るのもいいかもしれない

先ほど物思いにふけることを黄昏ると表現するのは間違っていると話しました。
それは空にとっての動詞であり人にとってのものではないと。

ですが時に人の心は空模様に表されることもあります。

日没直後で赤みを残す黄昏た西の空。
そしてすぐに訪れる暗い宵闇。

一人で物思いにふけ黄昏る人の心にも闇が迫っているのかもしれません。


「誰そ彼」

あなたは誰に問うのでしょう。
ただそこにはあなた一人だけ。

もしかするとそれは自分自身に向けられた言葉なのでしょうか。
本当の自分を見つけるために。

そういえば宵闇は黄昏時から月明かりがあなたを照らすまでの時間の事を指すのでしたね。

闇に迷ったあなたに優しい月光が届きますように。


それでは今夜はこのあたりで。

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